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まぜこぜやないとあかん

コラム・たんぽぽ野原 No.11 <“まぜこぜ”やないとあかん>


 先日の高知新聞「声ひろば」に、中澤社長さんの投書が載りました。桂浜の龍馬像のそばに維新の志士の銅像のレプリカを並べるという計画を機に巻き起こった県民の皆さんの大論争に事よせて、相変わらず続いている公立高校の「定員内不合格」を、鋭くやわらかく批判する内容でした。ああ、社長さんがこんなにも、私達の想いを理解してくださっている、ほんとに嬉しく心強い投書でした。
 「定員内不合格」というのは役所言葉ですが、簡単に言うと、公立高校の入学定員に空きがあって、入学を希望する人がいても、その人の入学を認めない、という事です。現在の制度では、高校は義務教育ではなく、学力検査や面接によって、入学を許可するかしないかの判断をする権限は高校にありますので、一見すれば法律違反ではありません。
 しかし、高校教育制度ができた頃と違って、近年の高校進学率は90%を越えています。さらに、公立高校は国民の税金で運営されています。日本国憲法には、すべての子ども達に教育を受ける権利が等しく保障されています。
成績がよくない、面接で声が出ない、そんな理由で入学希望者を落としてよいのか。特に、中学校で不登校だった子ども達が、極度の緊張のあまりテストや作文に何も書けない、面接で何も言えないということは、当然想定されることです。
教育委員会に勤務している頃から、定員内不合格を出すことは許されない、不登校やしょう害のある子ども達に配慮して欲しい、このことを高校現場に強く働きかけて来ました。そのため、私は高校現場にはすこぶる不評で、ネット上に「疫病神」などと書かれたこともあります。
私がこの問題にこだわるのは、様々なハンディキャップを背負わされた子ども達だけのためではありません。高校全体が、その教育水準を質的に高めなければならないという時代だからでもあります。これは全ての高校生の問題なのです。ついて来れない生徒、心が折れた生徒は捨てて行く、という現在のやり方では、高校教育はいつまで経っても、心の温かい人間を育てる場にはなりません。
どうすれば、高校教育は点数を追うだけでなく、豊かな人間性を育むものに変われるか。
神戸市立楠高校の牧秀一先生がこういう事をおっしゃっています。「学校も社会も、障がい者と健常者が“まぜこぜ”やないとあかんのですわ」。
とても深い言葉です。21世紀という時代は、環境問題にしても、資源や食糧の問題にしても、生きる事がとても困難な時代です。競争する事では誰も生き残れない。助け合う事でのみ、人類は生き残れる。そういう時代です。
こういう時代の教育は、ひとり一人の違いを認め合い、助け合って学ぶ事でなければなりません。これからの教育は、まぜこぜでなければ成り立たないのです。
私にこういう文章を書かせるきっかけを作ってくれたダウン症のSくんは、今、私立高校で元気に学んでいます。彼の元気が、私達の希望です。
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マツユキ草の季節

野いちごの場所で・12  <マツユキ草の季節>


 秋も深まって、すっかり葉っぱも枯れて跡形もなくなった頃、ふと思い付いてプランターを掘り返してみた。失望するのが恐いので、期待しないでいたのだが、ピーナツくらいの小さな球根が手のひら一杯出て来た。もう一回咲かせる、という自信は全然なかったが、芽くらいは出るだろうと思って、大きめの鉢に新しい土を入れ、丸く輪を描くように小さな球根を埋めた。
 毎日貧乏ぜわしく、世話は未知さんに任せっぱなし、鉢をのぞいてみることも滅多になかったが、年の暮れも近い頃、ようやく芽が出た。小さな青い芽は、すくすく成長するでもなく、じーっとしたままで、年を越した。
 ある日気が付いた。大小不揃いな大きさの芽の中に、葉っぱが二枚に増えたものがある。南国土佐も、今年の冬は格別に寒い。葉っぱが増えても、花が咲くことは期待してなかった。芽を出してくれただけで十分だよ。君たちはよくがんばったよ。
 ところが、一月の中旬、寒さがピークを迎えた頃、一番大きな葉っぱのもとに、小さな小さな蕾が出て来た。それから、一つ、二つ、三つ、四つ、白い小さな花が、恥ずかしゅうてたまらん、という感じでうつむいて咲いた。緑の手を持つ未知さんの魔法。
 二代目の球根を咲かせるのは難しいので、まさか、と思うちょったのに、我が家のベランダで、今年もスノードロップが咲いたよ。
 
もう六、七年前のこと、ある本屋で未知さんと時間待ちの立ち読みをしていて、浦沢直樹のコミックス「モンスター」全巻が置いてあるのを偶然見つけた。未知さんと、欲しいね、でもお金がね、というような会話を交わしたと思う。
ぼくが「モンスター」を読むのは、病院の待合室などでたまに掲載されている雑誌を手に取る時くらいだったのだが、退職して時間ができたら読みたい作品の一つであった。
読み物に関しては趣味の合う父と娘は、結局割り勘で買うことにした。我が家の本棚に、「モンスター」全十八巻が並んだ。今、「モンスター」は、たんぽぽ教育研究所の本棚の一角に移されている。もちろん未知さんは全部読んでいる。ぼくは、退職しても一向に暇にならず、気になる本の一つだけれど、まだ、読んでない。
今朝、未知さんと、ある相談ケースについて話し合っていた時、彼女がひょいと「モンスター」の最終巻を抜き出して来てぼくに見せながらこう言った。
私達は、子ども達に豊かな感情を養う教育をすることに心を砕いてきただろうか。
子ども達が大人になって大切なことは何か。仕事?人付き合い?違う。家に帰って飲む一本の缶ビールをうまいと思うこと。そういう小さな喜びや哀しみを感じる心を持つこと。
「モンスター」の最終巻にそういう場面が出て来るのだそうだ。
家に帰って飲む一本の缶ビールをうまいと思うこと、か。ああ、日々の忙しさに追われて、ぼくはそれさえ忘れていたかも知れないねー。ちょっと感動してしまったねー。子どもはこうして、いつの間にか親を超えて行くのだねー。
ぼくはいつも、自分の講演をこういう言葉で締めくくる。不登校、イジメ、学級崩壊、学力問題、解決が困難な教育課題を解決するために必要なこと、子育てや教育で一番大切なことは、私が、あなたが、自分自身の人生を如何に心豊かに生きるかということ。
 繰り返しそう言いながら、ぼくはそれができていなかったみたい。このところ飲み続けだけど、今夜は特別だ。うまい缶ビールを一本飲もう。

 桜馬場の娘の家に住むようになって、枡形方面に歩いて出る時は江の口川にかかる小さな橋、円満橋を渡る。渡る時は必ず川面を見る。汚れた水だけれど、大きな鯉や亀がいる。寒い季節には、大黒先生が教えてくれたヒドリ鴨の群れもやって来る。ぼくは子どもの頃から、なんであれ、鳥や魚、生き物を見るのがとても好き。
潮の加減によるが、数百匹のボラの大群が遡上する姿もよく見かける。ボラというあまり人気の無い魚が、こんなに愛嬌のある顔立ちをしているとは知らなかったよ。近頃はすっかり顔なじみになって、大きな頭、大きな目、大きな丸い口を一杯に開けて、大崎さん、辛抱しいよー、とやさしい声をかけてくれる。本当の話だよ。
去年から、住まいのベランダに野鳥レストランを開店した。小松さんが育ててくれた鉢植えのクチナシがあまりに大きくなったので、思いついてベランダに出し、ダメもとでミカンを枝に刺してみた。まさか、と思ったが、すぐにメジロが来てくれるようになった。時々、大きなツグミもやって来る。
今年は、温州ミカンが不作で高いので、ぼくの畑で採れた甘夏を刺してみた。温州ミカンほど甘くはないが、お客様は文句を言わずに来てくださる。去年の春から我が家の住人になった子猫の十四郎が唸り声をあげているが、彼らは気にしない。
 ぼくの暮らしは経済的には豊かではない。貯金はほぼ無い。車は今乗っている中古の軽四が最終になりそう。靴もスーツもワイシャツも、この先買える見込みも無いが、必要もなさそう。今あるものを大事にすれば事は足る。昨年、清水へ講演に行った時、思いがけなく昔々のあこがれの人が来てくれて、趣味のいい上等のネクタイと靴下をくださった。ネクタイと靴下も、これで臨終まで間に合う。
 研究所には今日も明るい陽射しが溢れている。懸命に生きようとしている若者が訪ねてくれる。たくさんの緑と静かな音楽。仕事の予定もぎっしり。今年は前半に小西豊先生の本を作る。後半には、資金の工面はついてないが、ぼくの最後の詩集を作る予定。
先日、ぼくの講演を聴いてくださった方から長い温かいお便りをいただいた。そのお便りの中に、スノードロップのことを和名ではマツユキ草と言うと書いてあった。「マツユキ」は多分「松雪」ではなく、「待つ雪」だろうと思う。雪の舞う厳寒を待って咲く小さな花にふさわしい、いい名前。ぼくは寒がりだが、なぜかマツユキ草の咲く季節が一番好き。
小さなものを愛する好奇心、人の心の痛みに想いを寄せる想像力、真冬を暖かく、人生を心豊かに生きるのに必要なものはそれだけで十分だよ。

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