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不登校問題の解決とは不登校を理解すること

<不登校問題の解決とは不登校を理解すること>


 先日、不登校をテーマに講演のご依頼をいただいた。
 ぼくは講演の準備に時間をかける。厳密な台本が無いとお話ができない。この台本作りに、90分の講演ならその10倍の時間がかかる。それも、一気に仕上げることはしない。必ず日を置いて、何度も何度も手を入れる。そうして考え方が少しずつ整理され、修正され、時々、進歩する。あ、ここは進歩したな、と思える時が一番嬉しい。年を取っても、まだ自分が成長していると思えることほど幸せなことは無い。
 さて、先日の不登校の講演、直前に保護者から切実な要望が入った。台本はもうできている。論旨を変えるような大幅な修正をする時間が無い。しかし要望には応えてあげたい。さすがのぼくも、少し、うろたえた。講演はそんなこともあってあまりいい出来ではなかった。
 けれど、それを契機にしてぼくの不登校観に少し進歩があった。いや、少しじゃない、コペルニクス的転回かもしれない。
それは、不登校問題の解決とは、子どもが学校に通えるようになることじゃない。親、教師、世間の人が不登校そのものを本質的に理解すること。深く深く理解すること。それが不登校問題の解決だということ。
 不登校は異常なことでも、まして悪いことでもない。たかだか、学校に行くか行かないか、それだけのこと。現在の学校に命を懸けて行く価値など無い。しかし、そのために子どもの心に深い傷を負わせているとすれば、それは回避しなければならない。そのために、不登校に対する、私達みんなの、本質的な理解が必要なのだ。
 子どもを学校に行くか行かないかで傷付けているのは、この生きづらい世の中、生きづらい学校、生きづらい家庭である。それは本人の資質、つまり個人の問題ではない。社会の問題である。治さなければならないのは本人の病気ではない。社会の病気である。
 今度機会がいただけたら、そんな話をしたい。しかし、こんな考えを公にするぼくにはもう、不登校を語る機会は来ないだろう。それでも、ぼくは真実を語らねばならない。
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リンドウの咲くところ

リンドウの咲くところ


 今朝は病院に寄って「たんぽぽ」に出勤したので、2分ばかり遅刻。なんと、早朝から待ってくれていたお客様あり。申し訳ないことをした。温かいコーヒーを淹れてお話をお聴きする。
 学校の先生と勉強のことで衝突した。家庭にも、外にも、何処にも居場所が無い。病状もかなり重い。心当たりの医療機関、生活訓練の場、いろいろ考えて提案してみたが、どこの門もすでに叩いていて、どこもうまくいかなかった由。詐欺師からようやく真打になったと自称するカウンセラーが、久し振りにうろたえた。
 とりあえずメル友になった。たんぽぽでの再会を約束して、玄関までお見送りした。
 山の上の村で、静かに病を養っておられる先生が今日も詩を送ってくださった。
 こんな内容の詩。
 <寛解して4ヶ月、坂道も30分歩けるようなっていた。ところがそれから11ヶ月後の今、突然何もできなくなった。2ヶ月たち、家事はそこそこできても散歩はできなかった。それから少しずつ歩き始めるが、なにかストレスがかかるとダウンし、また歩けなくなる。庭1周1分歩く日が長く続いた。秋になってから睡眠が安定してきたせいか、2週間ほど続けて歩けば4分コンスタントに歩けた。また2週間ほど続けて歩けば5分歩けた。7分歩けた。そして今日はなんと神社まで9分歩けた。神社で家族の健康を祈ることができた。うろこ雲を見上げながら、今度はリンドウが咲くところまで歩けたらいいなと思った。>
 久し振りに胸にズンと来る詩を読んだ。行き場の無いあの若者をリンドウの咲くところに連れて行ってあげたい。その術がぼくに無い。

不登校論

大宮小学校人権参観日講演   2015.10.2(金)15:00~16:30 (70+20分)

  <不登校にどう向き合うか>

お招きへの感謝・子ども達が健やかに育つことが難しい時代・不登校はその象徴的事象
 私の子どももその当事者として、今も苦しみのさ中にある
 我が子を支えながら、晩年を生きるのは、かなりハードな人生
 これからの人生を我が子がどうやって生きていくか・本人も家族も最大の気懸かり
 しかし、どんな境遇に置かれても心豊かに生きていれば、必ず、ささやかな幸せに辿り着ける
 その経験者として、今、苦しんでいる当事者、家族、学校にエールを送りたい
 私の話の中に、不登校あるいは教育の本質を「理解する」ヒントを見付け出していただければ幸い

不登校をどう理解するか
 不登校は全国で統計上12万人、潜在的不登校も含めると数十万人が苦しんでいる
 様々な対策が講じられて来たが減らない、効果的な対策が無い
 原因も様々、多くのケースは分からない、原因が分からないから対応も難しい
より深刻な問題は
 不登校は、保護者・家族にも、教育関係者にも、世間一般にも理解されていない
 不登校は、当事者やその家族特定個人の問題と、世の中全体が勘違いしている
 当事者の資質、あるいは家族のあり方に問題がある、と勘違いされている
 そのことが、当事者や家族の苦しみを一層大きくしている
 不登校は、特定個人の問題ではない、誰にも起り得るみんなの問題である
 不登校は50年前には存在しなかった・個人に原因がある問題なら存在したはず
 不登校にはこの50年間に生じた子ども達の生育環境の変化が関与しているはず
この50年間に子ども達の生育環境にどのような変化があったか、私達の社会は
 小規模な一次産業が基幹産業である経済的格差の小さな社会から
 大規模な二次・三次産業が基幹産業である経済的格差の大きな社会へ激変した
その結果何が起きたか
 自然環境が破壊された・過酷な競争社会・格差社会が出現した
 格差の拡大が人々の心の絆を分断した・コミュニティが崩壊した
 子ども達が地域の中、人々の絆の中、群れの中で安心して育つ場が失われた
 人間は社会的動物、群れの中に居場所があって安心し、幸せを感じる生き物
 人々の心の絆の喪失によって、群れの中の安心できる居場所が失われた
 ゆえに不登校は、ふとした引き金でどの子どもにも起り得る、個人の問題ではなく
 社会構造の変化がもたらした社会現象、社会病理、社会問題と理解しなければ、不登校現象の論理的な説明がつかない
 不登校は、本人の資質や、親の育て方の問題でなく、誰の上にも起り得る社会問題
不登校理解のもう一つのポイントは、子ども達の生育環境全体の悪化が、学力、非行、 イジメ、暴力、不登校など様々な教育課題となって現れている・不登校問題を正しく理解することは、全ての教育課題の解決に展望を開くことにつながる・誰もが無関係ではない・不登校が解決する時、学力問題もイジメも非行も暴力も解決する・全ての教育課題の原因は一つ、ゆえに取るべき対策の方向性も一つ
 不登校問題に対するこういう理解をして欲しい・それが問題解決への第一歩

不登校をどうとらえるか・過酷な現実に向き合うための哲学
 不登校は学校に行きたくても行けなくなる状態 <先日の高知新聞>
 甘えや無気力ではなく、健やかな育ちを阻害する場所を回避する自然の摂理の結果
 ゆえに、不登校は恥ずべき事でも異常な事でも決してない
 学校は行かなければならないもの、という固定観念を私達は捨て去るべき
 義務教育制度は、教育を受ける権利を保障する義務を国家・国民に課した制度
 それは子ども達が健やかに育つことができる環境を保障する制度
 現代社会は強きを助け、弱きを挫く、過酷で不条理な競争社会
 学校は否応なく現代社会の縮図、必ずしも健やかな成長を保障する場ではない
 不登校は不条理な現代社会に対する当然の自己防衛行動、異議申し立て
 だから、恥ずべき事、異常な事、悪い事では決してない
不登校は本人の(資質の)責任ではない・家族の(育て方の)責任でもない
 個人の責任にすることは問題を矮小化すること、真の問題解決から遠ざかること
 不登校は過酷な競争社会がもたらした社会病理であり、社会全体の責任である
ゆえに、本人の性格を治す、本人の気持ちを切り替える、という考え方に立たない
 現代社会の不条理、過酷な競争社会、失敗や挫折からの出直しを困難にしている社会の構造を治す、という考え方に立ちたい
 難しいことだけれど、こういう原理原則を踏まえて、現実に向き合うことが大事

家族として不登校にどう向き合うか
 最善の対応マニュアルは何処にも無い、誰も知らない 
 お話することは私の経験から得た仮説
まず、大切な事は、当事者本人との信頼関係を築くこと
 私がたんぽぽでお話を聴きながら注目しているのはただ一点
 この親子にまだ信頼関係は残っているか
では、親子の絆、信頼関係を築くためにはどうすればよいか
 時間がかかることを覚悟する <小西先生の話>
 共感して聴く・声にならない声を聴く・言葉や行動の背後に想いを寄せる
 子どもの話をしっかり聴くことよりも大切な時間は人生に無い
 子どもは全てを語れない場合が多い・だから声にならない声を聴く心構えが必要
 親は全部分かっているつもりで、実は何も分かっていないことを知るべき
 聴くことで当事者の苦しみへの理解が深まり、そこから新たな展望が開ける
自分の価値観、人生観、世間の常識を安易に押し付けない
 安易な助言やお説教をしない、教訓を垂れない・それは自己満足
 お説教で人は変えられない・理解と共感だけが人の心に響く可能性を持つ
自己肯定感を育てるような支援を心がける
 自己肯定感を育むマニュアルは無い、誰も方法は知らない
 時間をかけて少しずつ理解する、認める、愛する、抱き締める
 共感して聴く・善悪清濁、怒りも偏見も全てをまず受け容れる
 <我が子の農業志願とそれを否定した看護師の例>
 そんな経験を積み重ねることで自信という貯金を少しずつ増やしていく
不登校は人間として成長していくために必要なプロセスだと考える <まゆ理論>
 悩み苦しみが、その人の人生の厚みを作る・他者へのいたわりの気持ちを育てる
パーフェクトな親でなくてよい
 全てを読み切り、最善の結果を導くことは誰にもできない・それを目指さない
 その時々のベストを尽くす事で許される
 失敗を重ねながら親として成長していけばよい・そのことに意味がある
親自身が心豊かに生きる・その後ろ姿を必ず子どもは見ている

学校として不登校にどう向き合うか
  不登校についての本質的な理解を深める
  保健室に1時間以上は居らせない学校が現在もある・子どもを疑っている結果
  当事者本人との信頼関係を築く(親の場合と同じ)ことが基本中の基本
    小西先生の研究事例(学校との関係が良かった生徒は高校で復活している)
  授業改善運動を通じて不登校をゼロにしたA小学校の例から学ぶ学校経営の改善
三つの経営改善の提案・教育課題全体を解決するために
 教育の責任は、家庭、学校、地域社会が等しく背負うべきもの
 現代の教育の不幸は、家庭と地域社会の教育力が崩壊、教育の責任が学校に丸投げ
 学校は教育の全責任を負うことはできない、しかし、学校にできることはまだある
① 教科経営の改善
  <授業改善運動を通じて学校を変えたA小学校の例>
 校長でなく複数の中堅教員が牽引して全校運動・授業改善を通じて不登校がゼロ
 良い授業とはどういう授業か・指導の方法論にとらわれ過ぎては道を誤る
 指導の方法論よりも授業の主人公は教師ではなく子どもという思想が大事
 教室の片隅に置き去りにされる子どもがいない授業が良い授業
 みんなが参加意識が持てる・助け合う場面がある・発見がある・安心できる
② 学級経営の改善
  <吹き溜まりにいる子ども達に声をかけてくれた先生のいたB中学校の例>
 教師の価値観、人生観次第で学級は生きも死にもする・恐るべし
 日常の教育活動を通じてABC君を心に留める先生がいる学級は、
 すべての教育課題を解決することができる・これが本当の人権・道徳教育
 日常の教育活動の中でさりげなく子どもと固有名詞でつながって欲しい
 先生の一声、かたたたき一つで子どもは奮い立つ、変わる
③ 学校経営の改善
  <殺人以外は何でもありだったC中学校はどうして生き返ったか>
 全教員で定期的に話し合い、気になる子どもをピックアップ
 子どもの状態を共通認識する作業を通じて、先生の子どもを見る目が変わる
 先生がやさしくなると、教師と生徒の関係が良くなる
 教員間では、困ったことはみんなで共有して共に悩む関係が生まれる
 教職員が悩みを共有できれば、孤立して心を病む先生は少なくなる
 さらに、子どもにも保護者にも地域住民にも助けを求め、共に悩んでもらう
 そういう方向に発展すれば、学校は天国に、これを学校が開かれると言う
 そのために、日常の人を分け隔てしないお付き合いが大切
この三つの経営改善の味噌は、全部やらなくてよい、どれか一つに徹底して取り組めば、すべての道はローマに通ず、学校は子どもの幸せを紡ぐ場所になれる

当事者としてどう生きるか(これは本人に伝えることはできないことだけれど)家族・支援者として知っておくべきこと
 不登校は、誰にもできない貴重な生活体験、人生体験をすること
 それは人生にとって、負い目にも、マイナスにもならない・むしろプラスになる
 苦しみや哀しみを経験することで人の心の痛みが分かる人間になれる
 人生で大切な事は、自分がどういう価値観を持って生きるかということ
 朝、寝床で聞くスズメの声は騒音か、さわやかな朝の音楽なのか
 街路樹の落ち葉はゴミなのか、秋の訪れを告げる使者なのか
 道端に生える名も無い雑草にも美しい花が咲く
 その花に目を留められる人間であることが、生きる事の最大の意味
 自分の人生を、精一杯、心豊かに生きる
 誰もがお金持ちになることはできないが、心豊かに生きることは誰にもできる
 それはやろうと思えば誰にも出来る人生の選択、難しいことではない
 日常身辺にある小さなものに目を留める・小さなものを愛すると人生は楽しい
 自分の心の痛みを通じて、人の心の痛みを想像する・やさしさが育まれる
 この二つがあれば、誰でも、心豊かに生きられる
 自分が、自分らしく、心豊かに生きていれば、いつか周囲に、あるいは社会に伝わる
 その彼方に、必ず新しい人生の展望がひらける

最後に、子どもの幸せとは何だろう?
 幸せの形は人間一人一人みんな違う・その違いを認め、大切にすることが大事
 人生における成功とは何か・世間は勘違いしている
 よい学校、よい会社で、人は幸せにはなれない
 人生のピンチは誰にもいつか必ず訪れる
 挫折・敗北からもう一度立ち上がる力、生きる力を身に付けることが子どもの幸せ
 それはどうしたら身に付くか・人間への信頼を育てること
 それができる家庭、学校、地域社会でありたい
 それは私達みんなの責任・たんぽぽはその責任を果たす場所のひとつ
 自分の苦しみや哀しみを理解してくれる人が一人でもいれば 私達は生きる希望を持てる、生きてゆくことができる
 人に分け隔て無く接して生きていれば、そういう人に必ず出会える
 その時、私達は不思議な希望、不思議な幸せに出会うことができる

CM・詩集・人生の扉は一つじゃない
 自己肯定感を持てない、生きる事の意味がとらえきれない、挫折やピンチを乗り越えられない子ども達や若者達が増えている
 彼らと悩みを共にする視点で、自己肯定感をどうやって育てるか、自分が存在する意味を自分で確かめるにはどうしたらよいか、挫折やピンチを乗り越えるにはどうしたらよいか、置かれた境遇の中で自分らしい幸せをどうやって見つけるか、二人の子どもの心の病気と向き合ってきた自分の人生経験の全てを投入して書いた
 お役に立つかもしれない

下手な詩を書き続けるということ
       ――詩人・長田弘を悼む――

君は大きな出版社から
立派な装丁の詩集をたくさん世に出したが
どの詩を読んでも
その出来映えはぼく以下か、ぼく並み
つまり終生下手くそな詩人だった
それはつまり、詩は上手に書いてはいけない、下手な詩が上手
というぼくの考え方によく合っていた

君は勇ましい社会的発言をしなかった
君の詩が
社会的少数派や、孤独に生きる人や、
沈黙を守る無名の人々の気持に誠実であることで十分だったから
そのことも、ぼくの生き方によく合っていた
ついに君と相見えることはなかったけれど
君はそういう意味で、ぼくの永遠のライバルだった

享年七十五は、少し早過ぎないかね
ぼくの詩集を君が手に取る時をぼくは待っていたのに
それはもう叶わないが
ぼくはもうしばらく下手くそな詩を書き続けることにするよ
此の世のどこかにいるもう一人の下手くそな詩人にそれを手渡す夢を見るよ
それから君に会いにゆく
地獄の底で待っていろよ

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