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問題を解決するとは、問題を理解すること

野いちごの場所で・31・<問題を解決するとは、問題を理解すること>(季刊高知No.59掲載)
                          大 崎 博 澄
 ある小学校から、不登校をテーマにした講演のご依頼をいただいた。不登校の鬼、と自称するぼくのこと、不登校については、ぼくでなければ語れないことがいくつかある。だから、不登校についてお話する機会をいただくと、とても心が高ぶる。
 ところが、ぼくは講演の準備に時間がかかるんだなー。どんなに自分の語りたいことがあふれていても、厳密な台本を作らないと人前でお話ができない。これはよく言えば聴いてくださる皆様に対する誠実、わるく言えば、ぼくの頭が、自分で思っているほどにはよくないということ。
 講演の台本作りに、90分の講演ならその10倍の時間をかける。それも、一気に仕上げることはしない。必ず日にち、時間を置いて、何度も何度も手を入れ、少しずつ少しずつ仕上げる。そうするとお話が次第に論理的に整理され、間違いが修正され、時々ひょいと、考え方が進歩する。
 あ、ここは進歩したな、と思える瞬間がぼくの一番嬉しい時。年を取っても、まだ自分が成長している、自分の脳味噌が進化していると思えることほど幸せなことは無い。
 さて、その小学校の講演、直前に不登校のお子さんを持つ保護者さんから切実な要望が届いた。ぼくがその要望の真意を理解するのに少し手間取った。台本はもう完成している。話の筋道を変えるような大幅な修正をする時間が無い。要望にはできる限り応えてあげたい。少しうろたえた。そんなこともあって講演はあまりいい出来ではなかった。
 けれど、それを契機に、ぼくの不登校観に少し進歩があった。いやいや、これは少しじゃない。コペルニクス的転回と言うべきかもしれない。
 それは、不登校問題の解決とは、子どもが学校に通えるようになることじゃない。親、教師、世間の人が不登校を本質的に理解すること。私達が不登校の本質を理解すること、それこそが不登校問題の解決だという考え方に達したこと。
 問題を理解することが問題を解決することよりも大事。問題を理解することこそが根本的な問題解決に至る唯一の道。
 ぼくは不登校の子を持つ親として、過去には教育行政に関わる者の一員として、現在はカウンセラーとして、不登校問題を考え続けて来た。かれこれ三十年近くになるかなー。
 人生の時間の大半を費やして辿り着いたことが、たかだかそれだけかと言われれば返す言葉も無いが、ぼくにとっては、我が子の不登校に対する周囲の理解をひたすら願う母親の言葉が気付かせてくれた、これはとてもとても大きな一歩だ。
 非行、いじめ、学力問題、学級・学校崩壊、教育課題は山積している。解決の目処はまったく立たない。いじめ対策、学力対策など、個別の対策といったものは講じられているが、問題の核心を理解していないから、成果は一向にあがらない。この国の教育は暗闇の中をさまよっていると言うほかない。その被害はすべての子ども達に及ぶ。
 思考回路を変えなければならないと思う。それぞれの課題に対する本質的な理解、問題の核心をつかむことが、問題解決そのものよりも大事だということ。
 すべての教育課題の背景には、親と子の問題があり、生徒と教師の問題があり、子どもと地域社会のおんちゃんおばちゃんとの関係の問題がある。その絆のどれかがちぎれていても、どれかがつながっていれば、子どもに致命傷は与えないで済む。子どもとの絆を誰かが何処かでつなぐことが重要だ。それぞれの子どもの生育環境全体に対する深い理解があってこそ、それが可能となる。そこから、問題の根本的解決への展望が開ける。
 非行も、終わり無き悲劇が続くいじめも同じ。問題が表面化すると、隠蔽に必死になる関係者はたくさんいるが、問題の核心を理解しようとする関係者はほとんどいない。非行やいじめは、仲間を大切にするという価値観を最上位に置く学級づくり以外に根本解決の道は無い。
 学力そのもののとらえ方を根本的に間違えるという悲喜劇を抱えているこの国の学力問題もまったく同じ。子どもが社会的自立を果たしていくためにはどんな力が必要か、どんな学びがそれをもたらすのか、一番大切な、学力の本質から理解を積み上げる論議は、残念ながらこの国の何処にも無い。
 <問題を解決するとは、問題を理解すること>というテーゼを、人生をどう生きるか、ということに敷衍すればどうなるか。思いがけないことだが、ぼく達がそれぞれの生き方を考える上で一番大切なことに行き当たる。
 人間は社会的動物である。群れを作り、群れの中でよくもわるくも助け合いながら生きるしかない生き物。独りで生きることはできない。群れの中で安心して生きるための最大の問題は人との関係。
 “たんぽぽ”で日々お聴きする悩みの多くが、人間関係の難しさに行き着く。それを解決する唯一の糸口は、自分と他者を深く深く理解すること。そこから自分を知る、自分を許す、自分を肯定する道を見つけること。自分を許すことができれば、他者を許すこともできるようになる。
 不登校に話を戻そう。不登校を理解するとはどういうことか。
不登校は異常なことでも、まして悪いことでもない。たかだか、学校に行くか行かないか、それだけのこと。現在の学校に命を懸けて行く価値など無い。
 しかし、そのために子どもの心に深い傷を負わせるとすれば、それは回避しなければならない。そのために、不登校に対する、私達みんなの、本質的な理解が必要なのだ。
 子どもを学校に行くか行かないかで傷付けているのは、この生きづらい世の中、生きづらい学校、生きづらい家庭である。それは本人の資質、つまり個人の問題ではない。社会の問題である。したがって、治さなければならないのは本人の病気ではない。競争、格差、差別などという、現代社会が罹っている病気である。
 今度機会がいただけたら、そんな話をしたい。しかし、こんな不遜な考えを公にするぼくにはもう、不登校を語る機会は来ないだろう。それでも、人は知らず、ぼくは真実を語らなければならない。前号に引き続き、オレは馬鹿だなー、とつくづく思う。
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カプリースサロンコンサートのシナリオ

カプリースサロンコンサート・シナリオ(2015.12.27)
大崎のごあいさつ
  ご来場への感謝・オレは馬鹿だなー・いい歳をしてまだこんなことを・希望があると元気になれる
  今日は、金を払ってぼくの希望に付き合わせたお礼に、ぼくの不思議な幸せをお返ししたい

朗読 ①
道の歩き方

ギリヤーク人の住んでいる北の荒野に
文明は立派な道路を切り開いた
ところが彼らは一向にそこを歩かない
すぐかたわらに歩きやすい道路があっても
彼らは難渋するぬかるんだ荒れ野を進む
頑(かたく)なに文明を拒絶しているのではない
道というものの概念が違うのだ
彼らの道は、ただ通り過ぎるためだけではない道
彼らの道は、ただ歩くため以外の意味を持つ道
そして、私たちの想像力の外にあるその道こそが
私たちが失くしてしまった本当の道かもしれない
とすればキミは
道をはずれたことを嘆くにはあたらないのだよ
はずれたからこそ見えてくる道があり
そこにこそ
キミの行くべき本当の道があるのだよ

お話 ①
これは、村上春樹の小説「1Q84」に出て来るエピソードからインスピレーションを得て書いた詩
オレは馬鹿だなーと老子も言った・老子は自然の摂理を一番大切な哲学として生きたアンチ文明論者
ギリヤークの人達はアンチ文明とも少し違う道を歩いているのかもしれない
私達と幸せの物差しが違うのではないか
ぼくは今、不思議な幸せを生きている・この幸せの物差しはギリヤークの人々の道に近いかも
この物差しは人生のピンチに立った時、役に立つかもしれない
ぼくは“たんぽぽ”で、この物差しを使って困っている人を励ますことに精魂を込めている
困っている人を助けることほど大きな幸せは無いことを“たんぽぽ”で学んだ
ぼくは我が子の苦しみを救えないという大きな不幸を背負って、ぬかるんだ荒野を歩いているが、
多くの人の支えや励ましという不思議な幸せを頂いて、人生のバランスがとれている

朗読 ② 
アップルバターのつくりかた

コーヒー袋に穴あけた服を着た。
帽子のかわりに鍋をかぶった
林檎の種子を袋につめて肩にかついだ。
ジョニー・アップルシードは、
遠くまで一人ではだしで旅をした。
とても静かな男だった。
日々の食事は粗末なパン。
あとはアップルバターがあればよかった。
ジョニー・アップルシードのバターをつくろう。
いい林檎をまず絞る。
うまいアップルサイダーをつくる。
深い鍋にたっぷりと注ぐ。
火にかけてしっかりと煮つめてゆく。
林檎を四ツに切って、芯をとって
鍋に沈めて、さらに煮つめる。
すっかりやわらかくなったらきれいに漉して、
トロ火でゆっくり、
ゆっくりと煮つめてゆく。
それでいい。
それがジョニー・アップルシードのバターで、
林檎の木をアメリカに
植えてあるいた静かな男は
チョクトー・インディアンの娘を恋し、
アップルバターでトウモロコシのパンを食べ、
空の下で祈り、
ある日、インディアナ州の
一本の林檎の木の下で死んだ。
夢を大地に植えて、
ひとは林檎の木の下で死すべきもの。

お話 ② 
我が宿敵は谷川俊太郎と長田弘・その宿敵のひとり長田弘の死を悼む・ぼくと長田は似ている
詩にも抽象と具象がある・長田や僕の詩は具象、言い換えれば、下手くそ
綱渡りの危うい生活をしながら下手な詩を書き続けるという生き方、この生き方も下手くそ
それで許されるかどうかは分からないが、勇ましいのだけが立派な生き方でもあるまい
人生のライバルがいるというのも、ぼくの生きる力になっている、これも不思議な幸せのひとつ

長田弘追悼の詩の朗読
下手な詩を書き続けるということ――詩人・長田弘を悼む――

君は大きな出版社から
立派な装丁の詩集をたくさん世に出したが
どの詩を読んでもその出来映えは
ぼく以下か、ぼく並み
つまり終生下手くそな詩人だった
それは、詩は上手に書いてはいけない、下手な詩が上手
というぼくの考え方によく合っていた

君は勇ましい社会的発言をしなかった
君の詩が
社会的少数派や、
孤独に生きる人や、
沈黙を守る無名の人々の気持に誠実であることで十分だったから
そのことも、ぼくの生き方によく合っていた
だからぼくは、君が好きだったよ

ついに君と相見(まみ)えることはなかったけれど
君はそういう意味で、ぼくの永遠のライバルだった
享年七十五は、少し早過ぎないかね
ぼくの詩集を君が手に取る時をぼくは待っていたのにそれはもう叶わないが
ぼくはもうしばらく下手くそな詩を書き続けることにするよ
此の世のどこかにいるもう一人の下手くそな詩人にそれを手渡す夢を見るよ
それから君に会いにゆく、詩人なら詩人らしく、地獄の底で待ってろよ


朗読 ③
再び、寄りかからずーー茨木のり子詩集「寄りかからず」(筑摩書房)――

 ジャガイモの花が咲いた。追肥も土寄せも一度だけ、十分な世話をしてやれなかったけれど、けなげに小さな花をひらいてくれた。イモはできなくてもいいよ。これでぼくは満足だよ。ツルアリインゲンも、ぼくがおいさがし仕事でたてた竹笹に懸命にツルをからませている。佐藤記者の形見のサトイモも、ようやく芽を伸ばし始めた。今年も夏草の海になるはずだった山畑は、援農隊のみなさんのおかげできれいに散髪をしていただいた。いつもいつも、ありがとうこざいます。
 詩人の茨木のり子さんが亡くなった。生前最後の詩集「寄りかからず」がベストセラーになった頃、高知新聞のコラムに一度、やや批判的な雰囲気でこの詩人のことを書いたことがずっと気に懸かっている。
 <詩集はあまり売れないものだが、近ごろ、茨木のり子さんの詩集「寄りかからず」が評判になっている。新聞で表題作を拝見して、あれあれ、これは演歌だよ、と思った。大詩人をコケにしているのではない。時代に流されない精神が注目されるのはいいことだ。ただ、ぼくは今更この詩集を読もうとは思わない。時代や権力におもねらないということなら、高知には植田馨先生も西岡寿美子さんもいる。庶民に依拠する無名の詩人達は、言わずとも、寄りかからずに生きている。>
 茨木さんは、「大男のための子守唄」など、民衆の視座から魅力的な詩を書き続けた、戦後日本を代表する立派な詩人である。しかし、ぼくの胸の中には、地方に生きる無名の詩人のひがみ根性が抜きがたく存在する。そのひがみが、植田先生や西岡さんや片岡文雄さんや片岡千歳さんはこちら側の人で、どんな詩を書こうとも、茨木さんや谷川俊太郎や長田弘は向こう側の人という仕分けをしてしまうのである。
 三月二十一日付け朝日新聞「惜別」の欄に、白石明彦さんが茨木さんのことを書いておられる。茨木さんは高齢で一人暮らしをしていて、誰にも看取られずに死んでいった。死因は、くも膜下出血。脳に動脈瘤があったのだそうだ。生前、「高性能の時限爆弾なのよ」と軽やかに話されていたそうだ。同病相憐れむ。寄りかからず、の生き方を貫かれた潔さ。ぼくの心にいささかの感慨が湧く。
 さて、ぼくはどうか。ぼくは死を恐れ、孤独を恐れる愚かな弱い人間。その上に、心を病む家族三人を抱えて、死の恐怖よりももっと切実な、死ぬに死ねない情況にも置かれている。権力におもねることも、権威に寄りかかることも、我が人生になかったとは言えない。よろめきながら生き、潔からぬ死を遂げることになるだろう。
ぼくに限らず、こちら側にいる人々の多くは、似たり寄ったりの人生を、とぼとぼと歩むのだろう。ぼくは、その人々をいとおしいと思う。その人々の詩を書き続けたいと思う。それがぼく流の、寄りかからず。孤高不屈の詩人のご冥福を心から祈る。 (2006.6)

お話 ③ 
詩人茨木のり子さんも具象派の詩人・下手という点で似ている・ぼくは詩に何を求めているか
詩的精神を求めている・詩的精神とは圧倒的多数に抵抗する生き方・時代に流されない生き方
北村さんに、ぼくは偽善者というメールを送ったら、私は単純なバカという返信があった
北村さんも寄りかからずに生きておられる人・この邂逅も不思議な幸せ
余談・「人生の扉は一つじゃない」は奇跡の快進撃・「生きることの意味」は一向に売れない
しかし、まあ、いいか・ぼくの精魂こめた哲学がそう簡単に分かってたまるか、売れてたまるか
これも寄りかからずの精神かも、不思議な幸せかもしれない

朗読 ④ 
異端について

分厚いコンクリートの建物の中で
吐き気をこらえ
腋の下にあぶら汗をかきながら生きてきました
勇気とか、覇気(はき)とか、青春の輝きとか
そんなものには縁もゆかりもない情けない生き方でありました
けれど、清水さん
時代の闇を裂き
タブーに切り込むのはいつも
周囲の無視に耐えている
学校に行けなくなっている
会社を辞めざるを得なくなっている
自分の殻に閉じこもるほかなくなっている
背中の痛みをこらえて控えめにほほ笑んでいる
異端と言うにはあまりにか弱く
道化と言うにはあまりに生真面目な
このぼくなのです

お話 ④
たんぽぽの奇跡・朝の光の中でぼくは変身する・カウンセラーの限界を超えるカウンセリングをする
時間無制限でお話を聞く・感情移入する・共に怒り、共に泣く・怖い人に手紙も書く・金も貸す 
弁護士も手配する・お金はいただかないが、不思議な幸せという報酬をいただいている
先日市内の小学校で講演、前の学校へも呼んでくれた校長先生に再会・彼が読んでくれたのがこの詩
今、子ども達は人とおんなじでないといけないという強迫観念が支配する世界で苦しんでいる
異端を生きることも、それと同じくらい苦しいが、そこには自由と誇り、不思議な幸せがある

朗読 ⑤ 
それでも

キミがいつも聞かせてくれる
徳永英明が少年のような声で唄う
<壊れかけのレジオ>
あの頃、キミがひとりで抱え込んでいた孤独
あの頃、キミがひとりで抱え込んでいた絶望
<遠ざかる 故郷の空 帰れない 人波に
 ほんとの幸せ 教えてよ 壊れかけの レジオ
 遠ざかる あふれた夢 帰れない 人波に
 ほんとの幸せ 教えてよ 壊れかけの レジオ>
深夜のラジオから流れる歌を聴きながら
壊れそうな心の闇におののきながら
キミがひとりで耐えていたものの重さに
二十年も経って気づいても遅過ぎるよね
今さらどんななぐさめも、しらじらし過ぎるよね
それでも
ぼくはキミに伝えるほかないんだ
それでも
人生は生きるに値する、と
キミの孤独と絶望の底無しの深さこそ
キミを希望に誘(いざな)うただひとつの扉なんだ、と

お話 ⑤ 
ぼくは死ぬに死ねない情況だが葬儀の段取り、埋葬場所の準備をしつつある・後が無い我が人生
それでもこれからの予定がまだある・もうしばらく、たんぽぽを続ける・コンサートを続ける
石井忠彦さんと古希二人会をやる・盛大な出版記念会もやる・知事選挙にも出る
人生はそもそも四面楚歌、孤立無援、それでも生きることが、本当の生きることの意味
今、あなたが、出口の無いトンネルをさ迷っているということは、
生きるに値する人生を生きているということ
それこそが究極の不思議な幸せではないだろうか
普通の幸せのほかに、不思議な幸せがあることを忘れないで
  不思議な幸せに出逢いたい時は、“たんぽぽ”をお訪ねください

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