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中3男子自殺

<県中央部の中3男子自殺>
 3月31日付け高知新聞の報道、胸の中を暗澹たる思いが交錯する。自ら命を絶った少年の無念の思い、声にならない抗議の声が、何処にも、誰にも届かないことが哀しい。ぼくにはなす術が無いが、せめて今、同じような情況に置かれている多くの子ども達、親達に伝えたい。
 学校は、命を懸けてまで行かなければならない場所ではないよ。弱肉強食を許す競争社会、およそ教育とはかけ離れた監視や管理、人権侵害が公然と行われている現在の学校になじむことができない子どもがいるのは当たり前。そんな所に命を懸けてまで通う価値は無い。私達には学校の現状を改善する知恵も力も無い。であれば、道はただ一つ、お休みするしかない。心安んじてお休みしよう。勉強は本来、教えられてするものではない。したければ、自分でしたらいい。その方法はいくらでもある。ぼくはそうして生きて来た。
 いじめ自殺、繰り返される悲劇の度に思う事がある。
 弁護士や精神科医、臨床心理士ら6人で構成された「調査専門委員会」は、自ら命を絶つほかなかった少年の気持に寄り添った事実関係の調査、考察をしただろうか。調査において一番大事なキモはそこ。客観的立場、中立公正と言いながら、責任回避に躍起の官僚のリードにやすやすと乗せられていはしなかったか。調査委が認定した事実からも明白に、いじめの実態は浮かび上がっている。被害者の立場に立てない人に調査専門委員を務める資格は無い。
 世の中も、学校関係者も、保護者も、学校は行かなければならない所と思いこんでいないだろうか。すべての子どもに、楽しく学ぶ環境を求める権利がある。しかし、人の心を傷付ける場所に無理して通わなければならない義務は無い。私達はその、肝心かなめのところを勘違いしていないだろうか。
 教育の荒廃は、私達が気付かない間に、もう行き着く所まで行き着いている。被害者は子ども達だ。子ども達の命を懸けた抗議の声に、せめて自分を振り返ることのできる大人でありたい。
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不思議な幸せ

野いちごの場所で・32・不思議な幸せ              大 崎 博 澄

 ぼくの小さな詩集「人生の扉は一つじゃない」に、「道の歩き方」という珍妙なタイトルの詩がある。こんな詩。

ギリヤーク人の住んでいる北の荒野に
文明は立派な道路を切り開いた
ところが彼らは一向にそこを歩かない
すぐかたわらに歩きやすい道路があっても
彼らは難渋するぬかるんだ荒れ野を進む
頑(かたく)なに文明を拒絶しているのではない
道というものの概念が違うのだ
彼らの道は、ただ通り過ぎるためだけではない道
彼らの道は、ただ歩くため以外の意味を持つ道
そして、私たちの想像力の外にあるその道こそが
私たちが失くしてしまった本当の道かもしれない
とすればキミは
道をはずれたことを嘆くにはあたらないのだよ
はずれたからこそ見えてくる道があり
そこにこそ
キミの行くべき本当の道があるのだよ

 これは、村上春樹の小説「1Q84」に出て来るエピソードからインスピレーションを得て書いた。ギリヤークはシベリアの北方、厳寒の地域に住んでいる少数民族。文明が拓いた立派な道路がすぐそばにあっても、そこを歩かないという彼らの生き方に、なぜかぼくは強く心惹かれる。
 ぼくは人生の敗残者だ。取り返しのつかない失敗を重ね、我が子を深く傷付けた。数多くの人様も傷付けて来た。オレは馬鹿だなー、と先に立たぬ後悔をしている。
 ぼくは、古代中国の、今風に言うと反体制の思想家、老子が好きだ。彼の思想の集大成とされている著書「老子」は、近現代の哲学者が書く悪文の見本のような哲学書群に比べるととても文学的でよほどやさしい。「老子」の哲学は、人は自然の摂理に従ってひっそり生きるのが一番だよ、ということに尽きる。簡潔で分かりやすい。共感する。
 ただ、大昔の著作物、おそらく老子ひとりが筆者ではなく、いろいろな人の手が加わったのだろう。先鋭的な反権力、絶対平和の思想に加え、時々、オレは馬鹿だなー、というような慨嘆、肉声が混じる。そこが面白い。人間味を感じる。
自然の摂理に従う、ということは、老子はアンチ文明論者ということになる。そこにもぼくは共感する。文明は人類に幸福よりは災厄の方を多くもたらした。
 さて、ギリヤークの人達は単純なアンチ文明とも少し違う、そもそも私達と幸せの物差しが少し違う道を歩いているのではないかと思う。
 ぼくは生きることが下手で、人生で失敗ばかりして来たのに、今、不思議な幸せを生きている。この不思議な幸せの物差しが、ギリヤークの人々の歩く道に近いかもしれない。
 そして、この幸せの物差しは、人生のピンチに立っている人には、もしかしたら役に立つかもしれない。この、不思議な幸せの物差しとは、どんな生き方か、言葉で伝え切ることは難しいけれど、少しだけ書いてみようか。
 ありのまま、自分の弱さや恥ずかしいところを隠さずに生きる。そうすると肩がこらない。
身の周りの、ありふれた小さなものを愛する。そうすると孤独に耐えられる。
 自分の心の痛みを通して、人の心の痛みに思いを重ねる。そうすると新しい友達に会える。
 人を分け隔てしない。そうすると人にやさしくなれる。人にやさしくなれると、人からもやさしさを頂くことができる。
 自分の価値観、世間の常識を人に押し付けない。そうすると世界の見え方が変わる。
 いつも、小さな弱い人を守るという立場に立つ。すべてを譲るが、これだけは譲らない。
 ぼくは“たんぽぽ”で、この物差しを使って困っている人を励ますことに精魂を込めている。そして、困っている人を助けることほど幸せなことは無い、ということを学んだ。
 ぼくは、我が子の苦しみを救ってやれないという大きな不幸を背負って、今、ぬかるんだ荒野を歩いているが、多くの人の支えや励ましという不思議な幸せを頂いて、からくも人生のバランスをとることができている。
 人並みの道をはずれたら人生は終り、ではない。むしろ、はずれた時から、本当の自分のオリジナルの人生が始まる。そこにこそ、ぼくが、あなたが生きることの意味がある。そう考えてみてもよくはないだろうか。
 余談。「詩集・人生の扉は一つじゃない」は奇跡的によく売れた。一昨年末に出版した渾身のエッセイ集「生きることの意味」は一向に売れない。しかし、まあ、いいか。ぼくの詩的精神、精魂こめたぼくの哲学がそう簡単に分かってたまるか。売れてたまるか。
こういう考え方はひねくれているのかなー。
 人生はそもそも四面楚歌、孤立無援、それでも、なんとか自分で希望をひねり出して生きることが、本当の生きることの意味ではないだろうか。
 今、あなたが、出口の無いトンネルの中をさ迷っているとすれば、それこそまさに、生きるに値する人生を生きているということではないだろうか。それこそが究極の不思議な幸せではないだろうか。
 人生には普通の幸せのほかに、もうひとつ、不思議な幸せが確実に存在することを忘れないでいたい。その不思議な幸せの芽は、どこかよそにではなく、自分自身の中にあるということを信じていたい。
 不思議な幸せの実例に出逢いたい時は、“たんぽぽ”をお訪ねください。待っています。

野いちごの場所で

<野いちごの場所で>
 ぼくのバースデーに野の花のケーキを届けてくださった田中さんが、今度は野いちごとツメクサの白い花のアレンジメントを作って持って来てくださった。いつもながらお見事なセンス、手わざ。今日は野いちごの白い花の放つ甘い薫りが部屋に満ちている。
 「季刊高知」という小さなタウン誌に「野いちごの場所で」というエッセイを連載させてもらっている。ぼくの大変気に入っているこのタイトルは、盗作で刑事責任を問われることにはならないと思うが、実は二箇所から無断拝借して成り立っている。
 一つは、高知市高須でクッキーを作っておられる作業所のお名前、「野いちごの場所」。子どもがお世話になっているカウンセラーの先生のところにお伺いする時、時々このクッキーを買い求めて持参する。自分で食べたことはないが、工夫をこらしたつくり、こだわりの素材選び、見た目も美しい。たぶん、お味も絶品だと思う。
 もう一つは、もうかれこれ十年ほど昔、朝日新聞に連載されていた落合恵子さんのエッセイのタイトル、「午後の居場所で」。いつもしみじみと読ませていただいた。最近知ったことだが、落合さんはぼくと同い年らしい。ぼくの永年のあこがれの人のお一人である。
 「季刊高知」の野並編集長から誌面をいただけるという有り難いお話を頂戴した時、タイトルはこの二つから着想して、躊躇なく「野いちごの場所で」とした。あれからずいぶん長い間書かせていただいている。無名三流の作家の、唯一の作品発表の場。
 ところで、最近、少し気になることがある。若い頃は下手なりに自分の書くものに自信があった。どうも近頃、文章が下手になったと思う。ぼくは、人生はそこそこ主義、いい加減主義で生きてきたが、文章だけは、その思想、論理構成、その言葉の選び方、すべてに完璧であったかどうかは別にして、完璧主義だった。
 ところがどうも、近頃、書いた先から、自分で破綻が目に付くようになった。歳かなー、とも思う。書くことに淡白になったのかなー、とも思う。頭がわるくなったのかなー、とも。
 しかし、ぼくの思想、ぼくの哲学はまだ間違いなく進化している。カウンセラーとしても、少しずつではあるが進歩している。そう感じる。
 野いちごの白い花には、5月になると赤い実がなる。貧しい山の子ども達にとって何より嬉しい甘い宝石。もうしばらく、野いちごを口に含んだ時のような感動を伝える文章を書いていきたい。まだ書ける、書かいでか、という気概はまだあるのですが。

<せんせい、どうしておこらんが?>
 ご病気で休んでおられたY先生が4月から職場復帰することになったという嬉しいニュースを提げてたんぽぽを訪ねてくださった。表情も明るく、お元気そう。話はそれからそれへとはずんだが、ことのほかぼくの胸に響いたのは、復帰プログラムで出会った、てこに合わんいたずらっ子とのやりとり。
 子どもは叩いたり、蹴ったり、Y先生に乱暴の限りを尽くす。先生はにこやかに、なされるがまま。「せんせい、どうしておこらんが?」子どもはとうとうそう口にした。
 彼がこれまでに出会った先生や大人は、いたずらをするとみんな怒った。この先生はなぜ怒らないの?
Y先生は何の意図もなくぼくに復帰準備の日常の一こまを語られたのだが、この子どもの言葉はぼくの胸にズシンときた。そうか。教育とは子ども達の声にならない声を受け止めることなのか。叩いたり、蹴ったり、殴ったりする以外に、あの子どもには自分の思いを伝えるすべが無いのだ。その声にならない声を聞くのが、先生の、ぼく達おとなの務めなのだ。
 Y先生にまたひとつ、教育の真髄を教えていただいた。
 世の中では怒声や腕力で子どもを鎮圧する先生が指導力があるとされている。それがこの国の教育の主流だが、さて、この場合の指導とは何だろう。それは教育とは似て非なるものではないだろうか。
 この春、子ども達の、声にできない声を聞いてくれる先生がひとり教室に復帰される。ご苦労はあるだろうが、この国の子ども達のために、そのことがとても嬉しい。Y先生のご健勝を心からお祈りします。

ハッピーバースデー

<ハッピーバースデー>
 今年ほどたくさんの方に誕生日のお祝いをいただいたことはありません。皆様、たくさんのお言葉、お気持ち、ありがとうございます。
 今年はサプライズがいくつかありましてね。いつも「たんぽぽ」に野菜を届けてくださる田中さんが、レンゲやタンポポなど野の花を小さなケーキ風に見事にアレンジメントして持参してくださいました。ついでにコーラスで鍛えているノドで歌も歌ってくれました。おん年71歳の老人としては少し面映いことでしたが感謝。
 誕生日当日28日は本当に久し振りの風邪でダウン、29日はやむなく「たんぽぽ」を臨時休業。幸い軽くてすみましたが、さて、翌日出勤してみると、卓上に今度はもう一つ花籠。カードに渡部真平さんというお名前がありますが、?。
 「問題を解決することよりも、問題を理解することが大事」というカードの言葉は、まさしくぼくの話したこと。推理の糸をたぐってまる一日、ようやく贈り主に辿り着きました。四国管財様に県外から研修に来られていたあの眉目秀麗な若者。お話はしましたが名前は知らずにいました。
 お礼のお手紙を出したら、早速お電話をくださいました。またひとり、友達ができました。年は取りましたが、すこぶる元気、物忘れはひどいけど、脳味噌はまだ進化、さあ、もうしばらく、がんばるぞ。皆様ありがとうございます。

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