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近頃感動した文章2篇

 ぼくのメールアドレスにこんな文章が届きました。近頃、これほど大きな感動をいただいた文章を読んだことがありません。読者の皆様にも感動のおすそ分けをしたいと思い、筆者の許可をいただいて、そのまま転載します。

つきゆび倶楽部 No.11

皆さん、こんにちは。今回はページの都合もあるので挨拶もそこそこに、はじまりはじまり~。

下田の脳内観察日記(11ヶ月目)2015年5月

心に土足で入ってくる友人について

つきゆび倶楽部において、「心に土足で入ってくる友人」 という表現を何度か使用したことがあるのですが、私の説明不足によりマイナスなイメージで捉えてらっしゃる方がいらっしゃったので、今回は心に土足で入ってくる友人について書かせてもらいます。

心に土足で入ってくる友人(以下、彼と呼ぶ)とは、山田高校の定時制で出会いました。私は中学2年生の一学期に不登校になり、三年間ほど自分の部屋に完全に引きこもっていたために、彼は1つ年下の同級生でした。私と彼は割りと真面目な学生でした。他にも真面目そうな学生はいましたが少数派で、入学式から2ヶ月目で妊娠が発覚して自主退学したり、年に数回ですが窓ガラスが割られたり、学校の校庭で悪ふざけでバイクに轢かれそうになったりする環境でして、1年から2年に進級する頃には同級生の半分が退学、もしくは留年しているようなクラスでした。

彼は土佐山田まで、車で片道1時間強かかる地域の出身だったので、学校の近くにアパートを借りて近くのスーパーで品出しのバイトをしながらひとり暮らしをしていました。2年の途中から私は毎日のように彼の家に入り浸るようになり、彼は24時前後に就寝していましたが、私は彼が眠っている横でひとりでゲームをしたり漫画を読んだり、パソコンをいじったりして、彼がバイトに行くために起床してきたころに帰宅する生活をしていました。

中学、高校時代と、私は外出先でトイレの大をすることが出来ませんでした。不登校になる以前の中学校時代はお腹が痛くなってしまうことへの強迫観念から毎朝正露丸を飲んでから登校していたし、軽く火傷しちゃうくらいの熱々のホッカイロを予め用意しておいてそれをお腹に当て、痛みで便意を一時的にごまかすようなこともしていました。高校時代になっても、どんなにお腹が痛くなったとしてもひたすらに我慢していました。そして、私は外食が全く出来ない人間でした。外でトイレが出来ないために、外食をすることによってお腹が痛くなってしまったらどうしよう?という強迫観念に心が押しつぶされて出すものも無いのにお腹が痛くなってしまうような人間でした。
彼はそんな私を外食に誘い続けました。だけど私は断り続けました。普通であれば、2~3回断られた時点でもう誘わなくなると思います。だけど彼はしつこいのです。また時機を見ては誘ってきます。諦めるということを知りません。本当にしつこい。

けれど、これは本当に生まれ持った才能だと言い切ってしまって良いと思うのですが、彼に心に土足で入られても私は全く嫌じゃないんです。絶妙なバランス感覚で私の心に土足で入ってくるんです。一般的には人の心に土足で入るなんてことは失礼なことであり、不愉快なことだと認識されていると思いますが、私にとって彼が心に土足で入ってくることは全くもって嫌なことでは無いのです。むしろ彼に土足で入ってもらうことが心の安寧に繋がると言っても過言ではありません。

そんな彼が手を変え品を変え諦めずに誘ってくれたおかげで私は少しずつですが外食が出来るようになり、それに伴い、外出先でのトイレもある程度克服することが出来ました。

他にも数えきれないほど、彼は私の心のドアを幾度も蹴破ってきました。そして、結局最後には私が彼に感謝することになるんです。今じゃ下田対策のプロです。出会って16年目のベテランです。20歳を越えた頃からずっとザ・クロマニヨンズ(20歳時はザ・ハイロウズ)というバンドのライブに行こうと誘われていたのですが人混みが嫌いなのでずっと断ってきていました。けれど30歳を越えて色々と思うところもあり、やっとこさ重い腰を上げてライブへ参加したのですが、本当に生きていてよかったと思えるほど最高のライブでした。彼に巻き込まれて楽しめなかったことはほぼありません。

そして彼の素晴らしいところは、それらの行為の全てが、自分が楽しむためにやっているということです。私がひきこもりがちで可哀想だとか、同情心だとか、そんな考えでは動いていません。自分が楽しいと思えることの延長線上に私がいたらもっと楽しいだろうな、と思ってくれているのだと思います。だから彼は最高なのです。

基本的に私は、ひきこもっていたからこそ誰々に出会うことが出来た、ひきこもっていたからこそ良い経験が出来た、という考えがあまり好きではありません。そんな私でも、彼と出会えたことは素直に感謝が出来ます。彼のおかげで人生において一番辛い時期に現実逃避をして命と精神を守ることが出来たし、心に土足で入ってきてもらえて色々なことにチャレンジすることも出来たから。

そうそう、カラオケに関しても10年ほど誘われてやっとの参加でした。これに限っては私のあまりの音痴さに微妙な顔をしていたような気がしますが・・・(笑)

そんな彼は、将来を見据えて30歳にして10年続けた介護の仕事をやめ、三人の子どもの面倒をみながら看護師になるために専門学校に通う毎日を過ごしています。そんな彼の生き方にも刺激を受けながら、彼の一番上の子どもの物心が付く前に就職したいなぁ・・・なんて彼の子どもにも刺激を貰っています。

本当に彼と彼の家族には感謝しています。彼についてはまだまだ語ることはあるのですが、今回はこの辺で。
私の母

私の家族について、今回は母について少しだけ書いておこうと思います。
何故、今回母について書こうと思ったかと言うと、いくつかのイベント等で不特定多数の人を相手にして、私のひきこもり時代の話をさせてもらう機会がありました。私にとってはひきこもり時代の話をすること、イコール家族の悪口となります。ですので、人によっては私の家族に対して悪いイメージを持つこともあるでしょう。

このことは私にとって物凄く難しい問題となります。なぜなら、私の実体験を語る上で家族の悪口は避けて通ることは出来ないけれど、私の家族は悪人では無く、むしろ元となる部分は優しい人たちだからです。私が語るその場において私の家族が反論でも出来れば良いですが、そういうワケにもいきません。

ですので、一度私なりにですが家族のことを書いておこうと思ったわけです。

私の人生は本当に色々あって、人としての尊厳を傷つけられる出来事が多すぎました。そのせいなのかは分かりませんが、未だに生きているという実感を掴むことが難しいです。私は人付き合いに関してはそれなりに器用に出来てしまうので伝わりづらいと思いますが、本当に生きづらいです。

でも私は未だに生きています。生かされています。悲しいことが多い人生だったと思っていますし、無駄なことも多かった人生だと思っています。だけど、人を避けるようにして生きてきたにも関わらず、私は人生の節目節目で素晴らしい人と出会えてきました。私の心に土足で入ってきてくれる友人もそのひとりです。

で、31年間生きてきた中で、一番最初に出会った素晴らしい人は母親だと思っています。何が凄いって、母は常に必死であり、一所懸命でした。こんなことを言っても本人は否定するだろうけれど。

私が9~10歳の頃に兄が登校拒否になり、父は家に帰ってこなくなり、お金もほぼ入れてくれないような状況の中、母は私や兄を生かすためにずっと働きながら家事も育児もしていました。私が覚えているのは白飯とジャガイモの煮物のセットがよく食卓に並んでいました。当時は何も思わなかったけれど、今考えればお金が無かったんだろうなと、想像出来ます。それに、炭水化物 to 炭水化物だなぁ、とも(笑)

兄の学校にも足繁く通っていました。校長先生や、担任の先生ともよく話をしていたように思います。幸いにも担任の先生は、学校の仕事終わりに兄のことを気にかけてわざわざウチへ寄ってくれて一緒に遊んでくれるような先生だったので幾分か助けられていたように思います。
その2年後、私はとある私立の中学校を受験して合格して通うことになって、中学2年の1学期に不登校になるのですが、入学式のときに母が学校近くの歩道橋前で転んで足を骨折しました。その後お金を気にしたのかリハビリにはあまり行かず、左足の付け根の部分がグニャッと曲がった状態で足を引きずって歩くようになりました。それでもずっと働いていましたし、私が不登校になった際には担任とケンカもしてくれました。今でも覚えているのは、担任の先生から電話がかかってきて、色々と話をしていた中で
「中学校は義務教育だから子どもは学校へ通う義務がある」 みたいなことを言われて
「義務教育というのは、子どもが背負う義務じゃない!周囲の大人が云々かんぬん~~~」
と、怒ってくれたことを覚えています。先生は先生で色々と思うところがあったのでしょうし、大変だったんだろうな、とは思うのですが本当に頼もしく、ありがたかったです。

その後はずっともっと家庭の状況としては悪化していきます。でも、母は私達を生かすために必死でした。一年ほどでしょうか、車の中では体が休まらないだろうにシートに横になって睡眠を取りながら仕事へ行ったり家事をしたりしていた時期もあります。

私が18~19歳の頃が家庭的に一番きつかったように思いますが、それでも休まず働いていました。メインの仕事が休みの日にはネギ農家の手伝いに時給400円ほどでしたが通っていました。私達を生かすために一所懸命でした。

私が二十歳の頃に両親が離婚をしました。それは私としてもしょうがないことだとは思っていたのですが、二人で出かけて帰ってくる途中の信号待ちで突然離婚報告をされまして

母 「お母さん、○○に言ってなかったけど、お父さんと離婚した」
私 「そうながや。それは良いと思うけど、いつ離婚したの?」
母 「半年前」
私 「( ゚д゚)ええっ!?」

半年間隠していたことをなんでこんなタイミングで発表するの!?と困惑しつつも私は大爆笑しました。

その後は元々住んでいた家に住むことができなくなったので、土佐山田にあった借家に一時身を寄せたあとに今も住んでいる県営住宅へと移ってきました。

私が二十歳のときには高校4年生をやっていて、高校2年時から生徒会長を任されたり(他にやってくれる人がいなかっただけ)、練習をほぼほぼやらなかったのに運良く砲丸投げで高知の定時制大会で優勝して国立競技場へ行ったりもしたことも後押しをしてくれたのか、立命館大学クラスなら推薦入学出来るよ、という話を先生からいただいたりもしたのですが、私は「お金がかかるから嫌やなぁ」 としか考えていなかったのに、母は「お金はどうとでもするから大学へ行きなさい」 と背中をずっと押していてくれました。
ちなみに高知大学への推薦入学の話もあり、「下田頑張れ!」 と定時制の先生方に背中を押していただいたのですが、全日制と定時制をあわせて1名だけしか推薦枠が無く、全日制の子が推薦を貰って終わりました。私としてはあまり乗り気ではなかったので気にしていなかったのですが、教頭先生が
「僅差だったんだよなー。下田が働いていたらなー。推薦貰えたんだけどなー。惜しかったんだよなー」
と、ボヤいていました。私は高校四年間で一度だけバイトをやってみたのですが2日で泣きながらやめました。なので、私としては「ホントかよ(笑)」 って感じでしたが。

結局は高校時代と同じように夜間に通うことが出来て、学費も安いということで高知短期大学への入学が決まったのですが、精神的に不安定になったこともあり、2年で卒業予定だったのが、結果として4年をかけて卒業することになりました。

その間も母はずっと必死で働いてくれていました。朝5時からお弁当屋さんのバイトを掛け持ちしたり、介護のバイトをはじめたりしながら週7日働いていた時期もありました。

そんなことを繰り返しながら生かされてきました。私は現在31歳ですが、ずっとずっと母に生かされてきました。私も20~24歳まで夕刊の配達をしたり、25歳からは年に1~2ヶ月程度ショウガの農作業のお手伝いに行かせてもらったりはしていますが、たいして家にお金を入れられているわけではありません。

それでも母は必死に私を生かしてくれました。左足首がグニャっと内側に曲がっているのに。左足を引きずるように歩くのに。

母はボロボロでしょう。そして、父親も兄も私もボロボロです。去年10年ぶりに父に会ったけれど思った以上にボロボロになっていました。兄とは8年近く会っていません。でも、まだ誰一人死んでいません。生きています。母に生かされました。

母は必死に働いてきました。今これを書いている時間も働いています。母が必死に私達を生かしてくれた。
だから今生の世で幸せになりたい。来世なんかどうでもいいから。

文句がないわけじゃない。言いたいことが無いわけじゃない。尊敬しているかと言われれば正直分からない。
だけど、この人の必死さ、一所懸命さは単純にスゲェ!と思うのです。そして、これほどの必死さ、一所懸命さを一番の特等席で見てきた私が、母のことをスゲェ!と思えないのであれば、私は生きている価値が無い、とすら思います。

そして、ずっとお金がなくてリハビリに行けなかったから足首がグニャっと曲がっているんだと思っていましたが、今年になってから医大で検査を受けて、シャルコーマリートゥース病という名前の日本人には珍しい病気であり、今年はじめに難病指定されたばかりの病気のせいで足が内側にグネっているんだということが発覚しました。病気だと分かってからは足首を保護する装具を作成したり、定期的に病院に通ったりするようになりました。まだまだ未知の部分が多く、遺伝する可能性もありますし症状が良くなることは困難なことなのでしょうが、一つ前進出来たように思います。

そうそう、昔は家族で外食なんて考えもしなかったのですが、ショウガの農作業のバイトをはじめてからは母と人生を楽しもうと、たまーにですが外食に行っています。

この間は「鳥心」 という鶏肉専門店に行ったのですが、熱々の七輪が出てきて母親が思わず店員さんに
「自分で焼くんですか!?」 って聞いてました。そして、網で肉を焼くのなんて人生初だって言って、涙を浮かべて感動していました。その後、二人ともテンションが上がったんでしょうね。土佐山田にセブン-イレブンが出来たってことで食後のスイーツを買いに行こうってことになりまして向かってみたはいいんですが、駐車場に警備員が2名、レジは5台体制でフル稼働中。5台のレジ全てにもれなく10名ちょっとの行列が・・・。普段であれば私も母も人混みも行列も大嫌いなので行かないのですが、感動した勢いで行っちゃったんですね。高知は平和だなーと思いながらヤングジャンプを立ち読みしたあとに母親を探したら、死んだような目をして行列に並んでいました。あぁ、天国と地獄を一日で味わったんだなって。この落差はすげーなぁって。でも、こういったことを積み重ねていったら楽しそうだし、面白そうだなぁと思うのです。

話がとっ散らかってきましたが最後に。私の根本にある弱さや脆さは母にしか見せたことが無いですし、見せられたものじゃないです。そんな弱さを許容してくれる母に今日も生かされています。
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