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詩よりも人生が大切だ

野いちごの場所で・39・詩よりも人生が大切だ

大 崎 博 澄


 月曜から金曜まで、ぼくは原則たんぽぽに詰めている。お客様や電話への応対、メールへの返信、講演台本の準備や原稿書き、あれこれの雑用などのたんぽぽの仕事に、もろもろの小さなアルバイトや病院通いなどの外出が加わる。休日は、買出しだ、炊事だ、掃除だ、洗濯だ、十四郎のトイレの始末だ、なかなか忙しい。ぼくは老いぼれだが人気絶頂のアイドルのように、息つく間もないスケジュールで暮らしている。
 そんなぼくの束の間の楽しみは、毎週日曜午後のテレビの囲碁の時間。もちろん、これとて最初から最後まで心静かに楽しめるような日は滅多に無いが、高段者の対局を見ていると、ほんのしばし、心が休まる。なんと、万年文学少年、ヒューマニズムの権化、哲学老人の大崎さんは、意外にも碁が唯一の道楽なのだ。
 ただし、ぜんぜん強くない。小学生の頃、おやじが碁を手ほどきしてくれた。実はおやじは将棋が強かった。昼日なか、仕事もせずに縁側で将棋ばかり指していておふくろを悲しませたひどい男だ。おやじはぼくに将棋を教えても、相手にならないから面白くないと思ったのだろう。そこで碁を教えた。ところが、おやじの碁は大変なザル碁。たちまちぼくはおやじより強くなった。もしかしたら天才棋士になれたかも知れないが、残念ながらおやじ以後の師匠に恵まれなかった。そのため、研究もしない、定石も知らない、ヤマ勘だけで打つただのザル碁打ちになった。
 中村市に住んでいた人生の前半は、昼休みに同僚と碁を打つ余裕があった。高知に戻って子育てと仕事に追われる後半生は息せき切って走り続ける日々で、今に至るまで碁石にさわったこともない。それでも、ひょっとして何かの間違いで、いつかのんびり暇な晩年が訪れることがあったなら、近くの碁会所をのぞいて見ようかな、というような夢はまだ見ている。自転車で買出しの行き帰り、碁会所の看板を見上げている。
 碁に関して、近頃少し心楽しくないニュースを聞く。人工知能・AIが人間より強くなったという話。中国や韓国、日本、世界のトップ棋士がみんなAIに負けているという。これはショック。囲碁ほど着手の選択肢が自由で広いゲームは無い。天才達の無限の想像力に機械がかなうわけがない、と信じていた。
 ところが、最近のAIは膨大な対局データを記憶して、そこから最善手を割り出すのでなく、自分で学習して人間には考え及ばない最善手を打つほど進化しているそうだ。天才達の深い読みやひらめきが、たかが機械にかなわない、というのは人間としてちょっと悲しい。
 AIはやがて、文学や芸術、想像力や創造力の世界まで人間を凌駕していくのだろうか。
 そういう説もあるようだ。しかし、ぼくはこの点に関しては、あまり悲観していない。
 それはね。碁は相手より一目多く領土を獲得すれば勝ち。将棋は先に相手の王様の首を取れば勝ち。そういう絶対のルールがある。文学や芸術の世界にはそういう約束事は無い。作品が大ベストセラーになる、有名美術館に収蔵される、そういう幸運はあるだろう。しかし、それは作品の優劣、作品の真価とはまったく関係が無い。世俗の一時的な評価に過ぎない。
 文学や芸術の世界には勝ち負け、優劣というルールは存在しない。人生も同じ。ぼくもその一人だが、人生にあえて敗北を求めて生きる、という生き方も許される。ルールの無い世界にAIがつけこむ余地は無いだろう。
 ぼくは中学生の頃から、オレはいつか詩人になる、ひとかどの文学者になる、そう信じて貧しく悲惨なおのれの境遇、劣等感に耐えていた。それから年を重ねるうちに、自分にはどうもたいした才能が無いらしい、ということにうすうす気付くようになった。
 さて、どうするか。どうやって折れそうな自分の心を支えるか。幼い頃から、我慢すること、耐えること、孤独であること、美味しい物は全部人に譲ること、それを当然とする生き方を強いられてきた人間には、挫折、というような甘味な人生の休息はない。ぼくは次なる人生の支えを造作もなく編み出した。
 それは「詩よりも人生が大切だ」というテーゼ。若い頃のぼくの文章には、この言葉がしばしば登場する。
 ぼくは二十歳前後から詩やエッセイを書き始めた。どこにも発表する場が無いので、小さな同人雑誌を自分で作り、友人知人やあこがれの人に送った。誰もが、大崎さんはエッセイがいいね、と言ってくれた。これは、誉め言葉ではなく暗に、詩は下手だね、という意味。ぼくもこれに異議がなかった。詩は下手、と自認し、おおいに吹聴していた。
 優れた詩を書くことよりも、人生を誠実に生きることの方が大切だ、という考え方は、詩人としての才能が乏しい自分を支えるためにぼくが捏ね上げた屁理屈だったかもしれない。
 しかし、あれから五十年を経た現在も、この考え方は一貫している。そういう自分を幸いに思う。文学的成功にはまるで縁が無かったけれど。人生の方も、外見的には惨憺たる敗北に終ったけれど。
 文学や芸術も、人生も、赫々たる名声や成功が最終目的ではない。宮沢賢治風に言うと、この世の片隅にひっそりと暮らす誰かにぽつりと、「あれはそうですね」と言ってもらえれば、それで十分。それに尽きる。ささやかな邂逅が一つ、二つあれば、それ以上は何も要らない。
 ぼくは優れた詩を書けなかったが、人生をこのうえなく拙劣に、そこそこ誠実に生きた。大きな悲しみも引き受けざるを得なかったが、一つ、二つ、奇跡のような邂逅、何物にも代えがたい不思議な幸せをいただいた。
 こういう世界が存在することを、AIは理解できるようになるだろうか。
 ならないだろうなー。でも、案外なるかも知れないなー。なにしろ彼らの人生観(?)は限りない進化なのだから。それは怖しいことではなく、祝福されるべきことだ。その時、AIとぼくは友達になれるのだから。
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