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野いちごの場所で

山口瞳の反戦魂(だましい)



 もう、五、六年、あるいは七、八年昔のこと。ぼくの書くものをよく読んでくださっている読書家の大先輩に、偶然、裁判所の前の歩道で出くわした。ぼくは、山口瞳という江戸っ子のいごっそう作家のファンだが、先輩はそのこともよくご存じで、「今、本の整理をしているけど、山口瞳はいらないか」、「是非ください」、そんな会話をしてお別れした。そんな話を忘れかけた頃、七十年代、八十年代に出た男性自身シリーズをごっそり届けてくださった。
夕食の片付け、ゴミを出したり、十四郎のトイレの掃除をしたり、仏様に水をあげたり、娘の指もみや湿布貼りをしたり、明日のお弁当の準備をしたり、主夫は忙しい。
やっと、おやすみを言って小さな寝室にひきあげるのは午後十一時前後。田舎育ちで早寝早起きの習慣が付いているぼくには、かなりきつい時刻だが、眠るまでに、ほんのわずかな自分の時間を作る。
少しの時間だが、本を読みたい。いろいろ読むが、精神安定剤としても睡眠導入剤としても、山口瞳がやはり一番。たくさん書いているのに駄作が少ない。過剰な興奮を呼ばない程度に面白い。そこはかとないユーモアがある。人生の哀歓を大事にする。人を差別しない。
だが、何よりもぼくが山口瞳という作家を愛するのは、彼のオリジナルな思想である。誰にも影響されず、彼の、かなり凄惨な生い立ちが育くんだ独自のヒューマニズムである。
そういう向きのことは、彼は滅多に書かないが、書くと迫力がある。例えば彼の痛烈な反戦魂は、八十六年に出た男性自身シリーズ「私の根本思想」に躍如。嬉しい偶然だが、その内容は、ぼくが八十年に名も無いミニコミに書いた「反戦の歌」というエッセイ(「野の思想史」所収)と酷似している。
毎年八月、広島長崎の原爆の日や、終戦記念日が近づくと、ぼくは胸くそが悪くなる。新聞のあちこちに、戦争の悲惨を語る投書が載る。戦争の悲惨は語り継がなければならない。しかし、それは戦争の被害者の立場からだけではだめだ。私達は、戦争の被害者でもあるが、加害者でもある。あの悲惨な世界戦争を引き起こした国の国民として、戦争責任の一端を担っている。そのことを胸に刻んで、戦争の悲惨を語り継がねばならない。
被害者づらして、もっともらしいことをぬかすな。だからぼくは胸くそが悪くなる。
ぼくのように考える人は、例えば季刊高知の読者には一人もいないかも知れない。オー、イエス、ぼくは土佐のいごっそう。やさしく、温かい物書きの大崎さんというイメージが崩れても、このことだけは書いておかなければならない。これはぼくが、物書き、詩人として守らなければならない良心の一線。
さて、もう誰にも読まれる機会が無いだろうから、少し長いけれど、山口瞳の「私の根本思想」の一部を引用する。共感された方は是非、ご連絡ください。あなたは私の友達!
<山陰地方の山の中で終戦をむかえた。私は十八歳であり、陸軍二等兵だった。兵隊は睾丸(キンタマ)を抜かれ、日本の婦女子は、すべて凌辱されるという噂が流れた。流言飛語の類であるが、いまだから笑って話せるのであって、そのときは多くの人がそれを信じたのである。少なくとも私の所属する小隊では全員が信じてしまった。私は覚悟した。しかし、キンタマを抜かれるとはどういうことなのか、私にはまるで見当がつかない。
私は、キンタマを抜かれるということの意味はわからないままに、やられるときの怖しさ痛さを毎夜思い描いていた。私たちの部隊は、戦後一カ月以上も山の中に籠っていたのであるが、何の沙汰もなかった。
そうして、だから、私は宦官(かんがん)になってしまった。精神的なショックが、そういう形で残った。私は女々しい男になった。卑怯未練の男である。こういう男の言うことだから、私の意見に賛成する人は一人もいないだろう。そのことは承知している。承知しているが、敢えて言う。我が国の防衛費が、GNPの一パーセント二兆九千四百三十七億円(昭和五十九年度)というのは、いったい、どういうことなのか。
専守防衛であるという。いったい、われわれは何を守るのか。守るべき祖国といったものの実体は何であるか。いったい、どの国が、どうやって攻めてくるというのか。
いわゆるタカ派の金科玉条とするものは、相手が殴りかかってきたときに、お前は、じっと無抵抗でいるのか、というあたりにある。然り。オー、イエス。私一個は無抵抗で殴られているだろう。あるいは、逃げられるかぎりは逃げるだろう。かりに、○○軍の兵士たちが、妻子を殺すために戸口に来たとしよう。そうしたら、私は戦うだろう。書斎の隅に棒術の棒が置いてある。むこうは銃を持っているから、私は一発で殺されるだろう。
それでいいじゃないか。それでいいと言う人は一人もいない。だから、二兆九千四百三十七億円という防衛費が計上されることになる。私は元来がケチだから、その二兆九千四百三十七億円が惜しくてならない。
その防衛費をどうするか。かりに私が中曽根康弘なら、それを「飢えるアフリカ」に進呈する。人は、私のような無抵抗主義は理想論だと言うだろう。その通り。私は女々しく卑怯未練の理想主義者である。
私は、日本という国は亡びてしまっていいと思っている。かつて、歴史上に、人を傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったといったことで充分ではないか。そんな風に考える人は一人もいないだろう。
二兆九千四百三十七億円という防衛費を「飢えるアフリカ」に進呈する。専守防衛という名の軍隊を解散する。日本はマルハダカになる。どの国が攻めてくるのか私は知らないが、もし、こういう国を攻め滅ぼそうとする国が存在するならば、そういう世界は生きるに価(あたい)しないと考える。私の根本思想の芯の芯なるものはそういうことだ。>
ちなみに、平成二十三年度の防衛予算は四兆六千六百二十五億円である。歴史上、軍隊が国民を守った例は世界史にただの一つも無い。国民を見捨てて、いち早く遁走した無敵関東軍が好例である。国民に銃を向けた例は、現在も世界の各地で、日本でも近くは沖縄戦のように、枚挙に暇がない。それでも、軍事力で国を守るという考え方は圧倒的多数の人々に信じられている。山口亡き後、世界でただひとり、ぼくは信じない。
ぼくも名代のケチである。四兆六千六百二十五億円は、飢えるアジア・アフリカ・中南米に進呈したい。際限なく広がる一方の経済的な格差を是正する努力だけが、この国の、世界の平和を守るために意味があることだから。
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